報徳仕法と吉田松陰
- 將詞 橋本
- 10月8日
- 読了時間: 3分
久しぶりに更新します。
といっても、今回から毎月顧問先に送らせてもらっている「狸通信」にて、私が寄稿している記事から、2024年5月号。毎回、人材育成の話を歴史になぞらえて書かせてもらっていますが、この回から二宮尊徳の報徳仕法について書いています。(もちろん、色んな歴史に関する本を読ませてもらって・・・の話題です。。)
では・・・・
今回は、何度も書かせてもらっている私の大好きな二宮尊徳が広めた「報徳仕法」について書かせていただきます。「万物はすべてに徳(良いところ)があり、それを報いる(活用する)」という考え方に対して、小田原藩主の大久保忠真から「汝の考え方は論語にある以徳報徳(徳をもって徳に報いる)に似ているとの言葉から、「報徳仕法」として、尊徳の子孫や弟子たちが受け継いでいったといわれています。「報徳」には、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つの教えがあります。
「至誠」とは、この上なく誠実なこと、また、その心。まごころ。「至誠」を体現した有名な人物としてよくだされるのが、(こちらも以前にご紹介した)吉田松陰です。密航の罪により投獄された松陰は、長州へ護送され、国許で入獄、刑期中は囚人らに論語や孟子を講義していました。また、出獄後は実家に幽閉されることとなりますが、そこで松下村塾を開設。この松下村塾は町民や農民など身分にかかわらず入塾させ、自由な雰囲気で書物の解釈、時事問題の議論を重ねていきます。そこには、師と弟子の関係なく、自由な学びの場を提供し、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら育てることとなります。安政5年幕府が日米修好通商条約に無勅許で調印してから、攘夷派がさらに過熱、松陰らも老中襲撃を画策、倒幕計画を藩に持ちかけるという考えにまで及ぶようになり、安政の大獄にて投獄され江戸に護送されました。ここで、松陰は老中暗殺計画を自白します。そのことにより斬首となりますが、その前日に書いた句が国中の若者の心を震わすものとなりました。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし大和魂」
自白することで、死罪は当然のことと予想できたものの、あえて自白し、結果的に弟子たちの想いを焚きつけた格好となりました。倒幕などの考えの良し悪しではなく、松陰自身は自分の心に、正直に、まさに「至誠」をつらぬき、自白したものと考えると、大きく時代を動かした行動だったと思います。
我々社労士も、経営者の皆様も、そこにかかわる人たちに対し、それはお客様であり、家族であり、ともに働く従業員に、「至誠」を貫くことで、わかってもらえる・・・と言えば簡単に聞こえますが、この上なく誠実に、まごころをもって接していきたいと考えるものです。
祭りの季節です。
私の地元でも、再来週、城南宮の神幸祭があります。
もちろん、神輿の担ぎ手としては参加しますが、毎年参加していた神輿の準備には今年は参加できず。。。
一年に一回の、男結び。。(笑)







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