郷中教育と人材育成④
- 將詞 橋本
- 1 時間前
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毎月顧問先に送らせてもらっている「狸通信」にて、私が寄稿している記事から、2023年4月号。毎回、人材育成の話を歴史になぞらえて書かせてもらっていますが、薩摩藩の郷中教育について書いています。(もちろん、色んな歴史に関する本を読ませてもらって・・・の話題です。。)
郷中教育が根付いた薩摩藩が、藩の危機な状況にどのような答えを導き出したか、少し具体的な事例をいくつかあげたいと思います。
●島津義久VS 秀吉 ~負けない戦い方~
朝鮮の役の少し前、島津家16代当主島津義久、優秀な3人の弟ともに九州統一を目指すべく、秀吉から「惣無事令」(私戦禁止)が出されたにもかかわらず、無視し続け、大友家との闘いに明け暮れていました。面目をつぶされた秀吉は大群20万を九州に向けました。
① 秀吉に戦いを挑む 結果 勝利
② 秀吉に戦いを挑む 結果 敗戦
③ 秀吉に降伏する 結果 許される
④ 秀吉に降伏する 結果 許されない
戦いを挑んで、20万の大軍に勝てる可能性がほぼなし。となると、「降伏する」となりますが、許される保証はありません。義久は、信長と異なる「寛容さ」を世に示すため「許す」という可能性にかけ、剃髪し、出家して秀吉の前に正座しました。義久は、「家を残す」ことだけを考えたのではないかと思います。島津家さえ残れば、いつか再起できます。そのときは惨めであったとしても、再起できたときにはこの決断があったからこそ、となります。
郷中教育で語られた歌の中にこのような歌がありました。
「楽も 苦も 時すぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思うべし」
信長の死後、天下をとった秀吉ですが、島津家16代当主義久からすれば、「成り上がりもの」という気持ちが強かったのだと思います。でも、20万という大群の現実を突きつけられ、現代なら「降伏」という選択肢が最初に来るかもわかりませんが、当時は戦国時代。武士の時代です。戦わずして負けを認めることを決断する、この勇気が、現代とはまったく違う気がしませんか。何よりも、「家」を残すことを大事に、負けない戦いを決断した義久、素晴らしいと思います。結果、島津家は残り、義久は家督をゆずり、朝鮮出兵、関ケ原の戦いでは、西軍に属することとなり、徳川の世から幕末、明治維新へと続いていきます。
最近、youtubeのショート動画にNHKの大河ドラマであった真田丸がよく流れます。(私がみているからでしょうが・・・)真田といえば有名な「犬伏のわかれ」。
関ヶ原の合戦において、父と長男・次男が西軍と東軍にわかれてつくことを決めた有名な場面です。そこでも、やはり「真田の家を守るため」、西・東、どちらが勝っても真田は残る、この決断が、見方によれば卑怯?ずるがしこい?と考えてしまいそうですが、「家を守る」という視点で考えると、相当な決断だと思います。果たしてそんな決断ができるのか・・とも。

ご存じですか?
奈良県宇陀市にある 又兵衛桜。
先の真田の話ではありませんが、大阪冬の陣、夏の陣で豊臣側で活躍した後藤又兵衛(槍の又兵衛)が落ち延び、僧侶となり一生を終えた後藤家の屋敷跡にある桜の木・・です。
むちゃくしゃ大きなしだれ桜で、昨年も行きましたが、時季が早く、今年は咲き切った後でした。。なかなか満開のときに行くことはできないのですが、それがまた魅力。。



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