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郷中教育と人材育成⑤

  • 執筆者の写真: 將詞 橋本
    將詞 橋本
  • 3 時間前
  • 読了時間: 2分

毎月顧問先に送らせてもらっている「狸通信」にて、私が寄稿している記事から、2023年5月号。毎回、人材育成の話を歴史になぞらえて書かせてもらっていますが、薩摩藩の郷中教育について書いています。(もちろん、色んな歴史に関する本を読ませてもらって・・・の話題です。。)



 江戸幕府以降、安定した政権が続きましたが、薩摩藩が大きく世にでだしてきたのが幕末から明治維新にかけてです。幕末に大きく薩摩藩の名が広まった事件として有名なのが、「生麦事件」(1862年9月)武蔵国橘樹郡生麦村において、薩摩藩主島津茂久の父久光の行列を横切った騎馬のイギリス人たちを藩士が殺傷した事件です。1名が死亡、2名が重症を負いました。

 当時、行列を横切る者を切り捨てることは、幕府が定める法律では許されることとして、薩摩には責任はないとして、犯人の引き渡しと賠償金の支払いを拒みました。


①     非を認めない→幕府の責任として突っぱねる→英国が幕府の責任を追及

②     非を認めない→幕府の責任として突っぱねる→英国が納得せずに薩摩を攻撃

③     非を認める→犯人を差し出し、賠償金を払う→英国納得→家名断絶

④     非を認める→お咎め→家名断絶


薩摩藩は、③と④はなく、①で乗り切るつもりでしたが、薩英戦争に向かってしまいます。

①     英国と戦う→勝利(引き分け)→賠償金なし→薩摩存続

②     英国と戦う→敗北→薩摩断絶

③     英国に降伏→賠償金→薩摩断絶

④     英国に降伏→賠償金→薩摩存続


あくまでも、原因は幕府が定める法にあるとして突っぱねました。また戦闘しなくては不利益を被ると考え、引き分け作戦を実行します。実はこのとき、薩摩藩出身の実業家・五代友厚を通して講和できる自信があったとも解されています。英国艦隊は薩摩に砲撃し、薩摩も旗艦を集中攻撃し、狙い通り、引き分けに持ち込みました。


この流れだけをみても、家名断絶か存続か、そしてどのように自分の考える方向に向かわせるか、難しい選択が続きます。この後、薩摩は英国を味方として、一気に倒幕へと加速していくこととなります。



和歌山県田辺市・・で食べたねぎ焼き。
和歌山県田辺市・・で食べたねぎ焼き。

和歌山県田辺市で食べたねぎ焼き。

ねぎ焼きには、ちょっとうるさい私ですが、もちもちとしていて、醤油だれで食べるねぎ焼きは、飲んだ後には最高でした。

ただ、ねぎをもっとふんだんに入れてほしかったのと、てっぱんに面した部分はカリっとしてほしかった。。


 
 
 

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